2009年06月22日

心身問題に対する一元論の解答

二元論とは対照的に,一元論は、唯一の基礎的実体だけが存在すると主張する。今日、西洋哲学において最も広く受け入れられている一元論は物理主義(Physicalism)である。[9] 物理主義的な一元論は、物理的な実体だけが唯一存在していており、我々の科学が最もよくその性質を明らかにする,と主張する。[31] しかし、物理主義といえども、その定式化は多様なものであり得る(下記を参照)。

一元論のもうひとつの形態は観念論(唯心論)である。これは存在する唯一の実体は精神的なものであると主張する。これは現在の西洋哲学においては一般的ではない立場である。

現象主義は、外的対象の表象(あるいはセンス・データ)が存在するもののすべてである、とする理論である。この考え方は、20世紀初頭、バートランド・ラッセルや多くの論理実証主義者が一時的に採用したものである。[32]

第三の可能性は、存在するのは物質的でも精神的でもない何かである、という考えである。精神的なものも、物質的なものも、両方ともこの中立的な実体のもつ性質であるということになる。この立場は、スピノザが採用し、[8] 19世紀になってエルンスト・マッハによって広まったものである。[33] こうした中立的一元論は、いわゆる性質二元論(Property dualism)に似ている。
ライフセービング
信用取引
バドミントン
インフルエンザ脳症
ダーツ
ビタミン
近代オリンピック
カロリー
ホームシアター
脳神経外科
ご当地群馬情報
ボクサー情報
日本の正月
ご当地鹿児島
花木・庭木の気持ち
ご当地山梨
フルーツ王国
ご当地静岡
番茶百科
日サロ体験

行動主義は、20世紀の大半、特にその前半において、隆盛を極めた心の哲学である。[9] 心理学において、行動主義は内観主義の欠点に対する反動として発達した。[31]

自分自身の内的な心的生活についての内観的報告は正確になるように丁寧に吟味されているわけではなく、予測的一般化を形成する上では利用できない。一般化や三人称的吟味の可能性なしには心理学は科学になりえない、と行動主義者は言う。[31]したがって、そこから抜け出すには、内的な心的生活という考え方(ということはつまり存在論的に独立なものとしての心)を消去して、そのかわりに観察可能な行動の記述に完全に集中することである。

心理学におけるこうした展開と並行的に、ある種の哲学的行動主義(「論理行動主義」と呼ばれることもある)も展開された。[31]この立場は強力な検証主義に特徴づけられているのだが、検証主義によれば内的な心的生活に関する検証不能な言明は無意味だと一般に考えられる。行動主義者にとっては心的状態は内観的報告ができるような内的状態ではない。心的状態とは行動ないしある仕方で行動する性向の記述にすぎず、他人の行動を説明したり予測したりするために第三者によってなされるものである。

哲学的行動主義は、ウィトゲンシュタインが支持していたことで知られるが、20世紀の後半以来、認知主義の興隆と同時に支持を失っていった。[17]認知主義は行動主義のいくつかの問題点を認識して行動主義を否定した。たとえば、行動主義は、ある人がひどい頭痛を経験しているという出来事について誰かが語るときに、その人の行動について話していることになる、という点で直観に反する主張をしていると言える。

2009年06月05日

午前八時主義

後藤は「午前八時の男でやろう」というスローガンを掲げ、台湾総督府時代の腹心で40歳そこそこの中村是公を副総裁に抜擢し、中村とともに30代、40代の若い優秀な人材を理事はじめ要職にスカウトした。三井物産の門司支店長から抜擢された犬塚信太郎に至ってはまだ32歳であったが人物・識見を買われ理事となった。

満鉄は単なる鉄道会社ではない。日露戦争中に兒玉源太郎が後藤新平の影響を受けて献策した「満州経営梗概」には「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ。」とあり、それを具現したのが満鉄なのである。

満洲を中心とした鉄道経営のみに留まらず、炭鉱開発(撫順炭鉱など)、製鉄業(鞍山製鉄所)、港湾、電力供給、農林牧畜、ホテル(ヤマトホテル)などの多様な事業を行なった。後藤の発案で設けられた満鉄調査部は当時の日本が生み出した最高のシンクタンクとして知られた。

後藤は「満鉄十年計画」を策定し、ロンドンでの社債の発行によって2億円を調達し、これらの事業を進めた。

ロシア帝国から引き継いだ鉄道付属地での独占的行政権を与えられており、地方部のもとで大規模な近代的都市計画(大連、奉天、長春のちの新京など。)を進めた。上下水道や電力、ガスの供給、さらには港湾、学校、病院、図書館などのインフラストラクチャーの整備を進め、満洲経営の中心となった。

レールの間隔の変更(改軌)は、初期満鉄の大きな問題だった。もともとロシアの敷いた軌間は5フィート(1524mm)の広軌であり、日露戦争中、野戦鉄道提理部が日本から持ち込んだ内地用の車両が走行可能なように3フィート6インチ(1067mm)の狭軌に改築していた。これを、政府の命令書により中国や朝鮮などに合わせて4フィート8.5インチ(1435mm)の国際標準軌間に改築しなければならなかった。1908年には大連 - 長春の本線の改築が終わった。不要になった狭軌の機関車は日本に還送されることになり、周水子駅で異例の機関車の送別会が行なわれた。また、日露戦争中に軽便鉄道として敷設された安奉線も標準軌に改築された。

1912年12月、第2代総裁中村是公、副総裁国沢新兵衛が更迭される。立憲政友会出身の内務大臣・原敬の差し金であった。総裁に政友会系鉄道官僚・野村龍太郎、そして副総裁には政友会の幹部だった伊藤大八が送り込まれた。これ以来、満鉄幹部のポストは政党の利権の対象となり、社員と激しく対立することもしばしば生じた。伊藤大八はそれまで行なわれていた理事の合議制を廃止し、総裁の権限強化を提案したが、創立以来の理事であった犬塚信太郎が強硬に抵抗した。その結果、犬塚と野村、伊藤はいずれも株主総会で更迭された。
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1918年原敬内閣が成立すると、原は1919年4月、理事長・国沢新兵衛を更迭し、社長に再び野村龍太郎を起用、副社長に政友会系鉄道官僚・中西清一を抜擢した。

中西は塔連炭坑と内田汽船を異常に高い値段で買収した。塔連炭坑は政友会の幹部・森恪が経営していた。内田汽船も政友会系の人物が経営していた。炭坑や汽船を満鉄に売りつけた代金は政友会の選挙資金に充てられた(満鉄疑獄事件)。野党・憲政会はこの問題を帝国議会で追及し、中西を背任罪で告訴した。また社員の中にも職を賭して抵抗したものがいた。興業部庶務課長であった山田潤二は野村社長と中西副社長に直言し、容れられないと職を辞し、検事に決定的証拠を提出した。中西は逮捕・起訴されるが、控訴審で無罪となる。

こうした度重なる政党の介入に対し、社員は団結し、1927年、社員会を結成する。

2009年05月01日

後水尾天皇

後水尾天皇(ごみずのおてんのう、慶長元年6月4日(1596年6月29日) - 延宝8年8月19日(1680年9月11日))は第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日) - 寛永6年11月8日(1629年12月22日))。諱は政仁(ことひと)。

後陽成天皇の第三皇子。母は、関白太政大臣豊臣秀吉の猶子で後陽成女御の中和門院・近衛前子。

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中宮:徳川和子(東福門院)(1607-1678)
第二皇女:興子内親王(明正天皇)(1623-1696)
第三皇女:昭子内親王(1625-1651)
第二皇子:高仁親王(1626-1628)
第三皇子:若宮(1628)
第四皇女:顕子内親王(1629-1675)
第六皇女:賀子内親王(1632-1696)
第七皇女:菊宮(1633-1634)
女御:園光子(壬生院)(1602-1656)
第四皇子:紹仁親王(後光明天皇)(1633-1654)
第六皇子:守澄法親王(1634-1680)
第十皇女:元昌女王(1637-1662)
第十一皇女:宗澄女王(1639-1678)
第十三皇女:桂宮(1641-1644)
典侍:四辻与津子(?-1638)
第一皇子:賀茂宮(1618-1622)
第一皇女:文智女王(1619-1697)
典侍:櫛笥隆子(逢春門院)(1604-1685)
第五皇女:理昌女王(1631-1656)
第五皇子:某(1633)
第八皇女:光子内親王(1634-1727)
第八皇子:良仁親王(後西天皇)(1637-1685)
第九皇子:性真法親王(1639-1696)
第十二皇女:摩佐宮(1640-1641)
第十四皇女:理忠女王(1641-1689)
第十一皇子:穏仁親王(第三代八条宮)(1643-1665)
第十三皇子:道寛法親王(1647-1676)
典侍:園国子(新広義門院)(1624-1677)
第十皇子:尭恕法親王(1640-1695)
第十五皇女:常子内親王(徳川家宣正室近衛熙子の母)(1642-1702)
第十四皇子:眞敬法親王(1649-1706)
第十六皇子:尊證法親王(1651-1694)
第十九皇子:識仁親王(霊元天皇)(1654-1732)
第十七皇女:永享女王(1657-1686)
典侍:四辻継子
第十二皇子:尊光入道親王(1645-1680)
第十八皇子:盛胤法親王(1651-1680)
第十六皇女:文察女王(1654-1683)
宮人:水無瀬氏子
第九皇女:新宮(1635-1637)
第七皇子:性承法親王(1637-1678)

2009年04月17日

ハノーファー王国

ハノーファー王国(独:Königreich Hannover)は、現在のドイツ北部のニーダーザクセン州に存在した国家の通称。

1692年にハノーファー公エルンスト・アウグストが選帝侯となってから1803年にフランスに占領されるまでブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯国 (Kurfürstentum Braunschweig-Lüneburg) として、および1814年のウィーン会議によってドイツ連邦の構成国となってから1866年に普墺戦争に敗れてプロイセン王国に併合されるまでハノーファー王国として存続した。以後は1946年までプロイセン王国の一州となっていた。もともとはブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国 (Herzogtum Braunschweig-Lüneburg) の一部であるカーレンベルク公国(1432年 - 1803年

神聖ローマ帝国の領邦の一つであったブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国は、しばしばいくつもの公(侯)国に分割された。1432年にブラウンシュヴァイク公国から分割されたカーレンベルク公国も、そうした領邦の一つであった。カーレンベルク公位は1584年に断絶によってヴォルフェンビュッテル公に継承されるが、1635年にカーレンベルク公国はゲッティンゲン公国とともに、再びヴォルフェンビュッテル公国から分割された。そして1636年に首都がパッテンセンからハノーファーに遷されたため、ハノーファー公国と呼ばれるようになった。

1692年、ハノーファー公エルンスト・アウグストが選帝侯となったことにより、その公国はブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯国、通称ハノーファー選帝侯国となった。1714年、ハノーファー選帝侯ゲオルク1世はジョージ1世としてイギリス王に即位した(ハノーヴァー朝)。ドイツにおいても、リューネブルク公国の継承(1705年)、スウェーデンからのブレーメンとフェルデン(ブレミッシュ=フェルデン)の割譲(1719年)、と勢力を拡大していった。

1803年には、ナポレオンによる神聖ローマ帝国解体の一環としてオスナブリュック司教領(Bishopric of Osnabrück)を併合したものの、選帝侯国はフランスに占領され、1807年にはヴェストファーレン王国の一部となった。しかし1813年に選帝侯ゲオルク3世(イギリス王ジョージ3世)は領土を回復し、1815年のウィーン会議により王国に昇格した。これは王国となっていたヴュルテンベルクと地位を等しくするためだった。さらにウィーン会議でハノーファーは、リューネブルク公領であったエルベ川右岸や東にあったいくつかの飛び地と引き換えに、プロイセン王国からヒルデスハイム司教領(Bishopric of Hildesheim)、東フリースラント、リンゲン伯領(The Lower County of Lingen)、およびミュンスター司教領(Bishopric of Münster)の北部を獲得した。

ハノーファーの王位継承規定はイギリスと異なっていたため(サリカ法典を採り、女子のハノーファー王位継承を認めていなかった)、イギリスとハノーファーの同君連合は1837年、ヴィクトリアがイギリス女王に即位したときに解消され、女王の叔父エルンスト・アウグストが即位した。このとき、イギリス的な自由主義国家体制も破棄されたために、これに抗議するグリム兄弟らによってゲッティンゲン7教授事件が起こされた。1866年の普墺戦争でハノーファー王国はオーストリア方についたため、敗戦後にプロイセンに併合されて州となった。第二次世界大戦後の1946年に、イギリスの占領下でオルデンブルク、ブラウンシュヴァイク、シャウムブルクと合併してニーダーザクセン州となり、ハノーファーの名前は国名としては消滅した。

歴代君主一覧 [編集]
年号は、在位期間を示す。

ハノーファー選帝侯 [編集]
正式には「ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公、カーレンベルク公、神聖ローマ帝国選帝侯」

エルンスト・アウグスト(1692年 - 1698年)
ゲオルク1世ルートヴィヒ(1698年 - 1727年) イギリス(グレートブリテン)国王およびアイルランド国王ジョージ1世(1714年 - 1727年)
ゲオルク2世アウグスト(1727年 - 1760年) イギリス国王およびアイルランド国王ジョージ2世
ゲオルク3世(1760年 - 1803年) イギリス国王およびアイルランド国王ジョージ3世
1803年、ハノーファー選帝侯国はフランスに占領され、以後10年間ゲオルク3世の統治下にはなかった。しかし彼と家臣はロンドンで独自の外交を続けた。

1815年、フランスから解放。統治権を奪還。同年ドイツ連邦に参加。連邦議会の議席を得る。

ハノーファー国王 [編集]
ゲオルク3世(1814年 - 1820年) イギリス(グレートブリテンおよびアイルランド連合王国)国王ジョージ3世
ゲオルク4世(1820年 - 1830年) イギリス国王ジョージ4世
ヴィルヘルム(1830年 - 1837年) イギリス国王ウィリアム4世
エルンスト・アウグスト(1837年 - 1851年) カンバーランド公アーネスト
ゲオルク5世(1851年 - 1866年) カンバーランド公ジョージ
1837年イギリスで女王ヴィクトリアが即位すると、サリカ法典を採る王国はその叔父エルンスト・アウグストが継承し、同君連合は解消された。

1866年にハノーファー王国はプロイセン王国に併合され、ゲオルク5世と王太子エルンスト・アウグスト(2世)は廃位された。王太子の子エルンスト・アウグスト(3世)はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の皇女との縁組により、同族の遠戚の死後空位となっていたブラウンシュヴァイク公の継承が認められた。

ハノーファー州知事一覧 [編集]
年号は、在任期間を示す。

オットー・ツー・シュトールベルク=ヴェルニゲローデ伯爵 Otto Graf zu Stolberg-Wernigerode(1867年 - 1873年)
ボート・ヴェント・アウグスト・ツー・オイレンブルク伯爵 Botho Wend August Graf zu Eulenburg(1873年 - 1878年)
アドルフ・ヒルマール・フォン・ライプツィガー Adolf Hilmar von Leipziger(1878年 - 1888年)
ルードルフ・フォン・ベニヒゼン Rudolf von Bennigsen(1888年 - 1897年)
コンスタンティーン・ツー・オットー・ツー・シュトールベルク=ヴェルニゲローデ伯爵 Konstantin Graf zu Stolberg-Wernigerode(1898年 - 1902年)
リヒャルト・フォン・ヴェンツェル(1902年 - 1914年)
ルートヴィヒ・フーベルト・フォン・ヴィルヘルム Ludwig Hubert von Windheim(1914年 - 1917年)
エルンスト・フォン・リヒター(ドイツ人民党、1917年 - 1920年)
グスタフ・ノスケ Gustav Noske(ドイツ社会民主党、1920年 - 1933年)
ヴィクトール・ルッツェ Viktor Lutze(国家社会主義ドイツ労働者党、1933年 - 1941年)
ハルトマン・ラウターバッハー Hartmann Lauterbacher(国家社会主義ドイツ労働者党、1941年 - 1945年)
ヒンリヒ・ヴィルヘルム・コップフ Hinrich Wilhelm Kopf(ドイツ社会民主党、1946年)

とまま 月の微笑 アテンポ アトゥドア トリビュ ブイWEB イアリン リスト タンザ マルチ ティック ガーナ デジャブ ぴっこ エミュー レーター マルク レンジャー チータ リーシム タカス イミング チャー オペレ トサミズ イチョウ ワラント ギアサン ミヤマ 一意専 ツァーリ テーマ ネメシア チャック プラグ フレンドリー キープトコ えいち リユース パラソル みるいろ ミル スキーヤー ダイウェブ フリータ カツラ ブラジル レジデント パテ シマル

2009年04月02日

易経(えききょう)

易経(えききょう)は占筮に用いられる書物。『周易』(しゅうえき、Zhōu Yì)または単に『易』(えき)とも言うが、易経とは儒教の基本テキスト五経の筆頭に挙げられる経典である。通常は『周易』に儒教的な解釈による附文(十翼)を付け加えたものを易経といい、『周易』と区別している。

太古よりの占いの知恵を体系化し組織化し、深遠な宇宙観にまで昇華させている。三易のひとつ。

今日なお行われる易占法の原典であるが、『易経』成立当時の占いは現代の軽さとは大いに趣きを異にして、古代にあっては、共同体の存亡に関わるきわめて重要かつ真剣な課題の解決法であり、占師は政治の舞台で命がけの責任をも背負わされることもあった。
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現行『易経』は、本体部分とも言うべき(1)「経」(狭義の「易経」。「上経」と「下経」に分かれる)と、これを注釈・解説する10部の(2)「伝」(「易伝」または「十翼(じゅうよく)」ともいう)からなる。

(1)「経」には、八卦のくみあわせによってできる六十四卦の図象と、その意味について記述する卦辞と、それぞれの卦を構成している6本の爻位(こうい)の意味を説明する384の爻辞(乾・坤にのみある「用九」「用六」を加えて数えるときは386)とが、整理され箇条書きに収められ、上経(30卦を収録)・下経(34卦を収録)の2巻に分かれる。

(2)「伝」(「十翼」)は、「彖伝(たんでん)上・下」、「象伝(しょうでん)上・下」、「繋辞伝(けいじでん)上・下」、「文言伝(ぶんげんでん)」、「説卦伝(せっかでん)」、「序卦伝(じょかでん)」、「雑卦伝(ざっかでん)」の計10部である。

なお、1973年、馬王堆漢墓で発見された帛書『周易』(前漢初期(紀元前200年頃))写本に「十翼」は無く、付属文書は六篇(二三子問・繋辞・易之義・要・繆和・昭力)で構成されていた。

現代出版されている易経では、一つの卦に対して、卦辞、彖、象、爻辞の順でそれぞれが並べられていることが多く、「経」、「彖」、「象」を一体のものとして扱っている。

十翼(易伝)の内容 [編集]
「彖伝上・下」には、「周易上・下経」それぞれの卦辞の注釈が収められている。
「象伝上・下」には、各卦の象形の意味についての短い解説と、その爻辞の注釈が収められている。易占家の間では、前者部分を「大象」、後者部分を「爻伝」、というふうに呼称を区別していることがある。
「文言伝」では、六十四卦のうち最も重要かつ基本の位置づけにある二卦である、乾(けん)および坤(こん)について、詳しい訓詁的な解説がなされる。
「繋辞伝上・下」には、易の成り立ち、易の思想、占いの方式、など、『易』に関する包括的な説明が収められている。
「説卦伝」では、大成六十四卦のもととなる小成八卦の概念、森羅万象をこの八種の象に分類するその分類のされ方が、詳説される。
「序卦伝」には、現行の「周易上・下経」での六十四卦の並び方の理由が説明されている。
「雑卦伝」では、占いにあたって卦象を読み解く際の、ちょっとしたヒントが、各卦ごとに短い言葉で述べられる。着目ヒント集である。

書名 [編集]
この書物の本来の書名は『易』または『周易』であるが、『易経』というのは儒教の経書に挙げられたからで、他の五経が『書経』・『詩経』・『礼経』・『春秋経』・『楽経』というように「経」の字が追加されるのと同様である。一般的に『易経』という場合、後代の注釈書である「伝」を除くことがないので、「伝」までをも含めての1つの書とされることが多いのであるが、本来的には『易経』は卦・卦辞・爻辞部分の上下二篇のみを指す。

この書物の名がなぜ『易』なのか、古来よりさまざまな説がなされてきた。ただし、「易」(エキ)という語がもっぱら「変化」を意味し、また占いというもの自体が過去・現在・未来へと変化流転していくものを捉えようとするものであることから、何らか「変化」と関連すると考える人が多い。

有名なものに「易」という字がトカゲに象ったという蜥蜴説があり、トカゲが肌の色を変化させることに由来するという。

また「易」の字が「日」と「月」から構成されるとする日月説があり、太陽と月で陰陽を代表させているとする説もあり、太陽や月、星の運行から運命を読みとる占星術に由来すると考える人もいる。

伝統的な儒教の考えでは、『周易正義』が引く『易緯乾鑿度』の「易は一名にして三義を含む」という「変易」「不易」「簡易」(かわる・かわらぬ・たやすい)の三易説を採っている。

また『周易』の「周」は中国王朝の周代の易の意であると言われることが多いが、鄭玄などは「周」は「あまねく」の意味であると解している。

2009年03月19日

キト (Quito)

キト (Quito) はエクアドル共和国の首都。グアヤキルに次いで人口が多い。

赤道直下に位置しているが、アンデス山脈の中腹(標高2850メートル)にあるため比較的涼しい。人口1,399,378人(2001年)。キトの北23kmに赤道記念碑があり、線で赤道の位置が示されているが、実際の赤道との誤差がある。

キトの発祥は紀元1000年以前までさかのぼることができる。当時、その一帯は遊牧民たちの遊牧する土地であったが、その後今のキトの位置に市が開かれた。
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15世紀末にはインカ帝国の支配下に置かれ、11代インカ皇帝ワイナ・カパックの母親が当地の出身だったため、帝国の第二の首都として整備されることとなる。第一の首都であるクスコからキトまでは、インカ道が通された。 しかしその後、帝国ではクスコ派とキト派との対立が深まり、ワイナ・カパックの死後、帝国は2人の息子により分けられ、ワスカルがクスコを中心に帝国の大部分を、そして、アタワルパがキトを中心に北部を収めることとなる。

その後起こった内戦で勝利を収めたアタワルパは、キトからクスコへ向かう途中、侵略してきたスペイン人の捕虜となり、処刑される。そしてキトは、スペイン軍の侵略を防ぐために、アタワルパの武将であったルミニャウィによって破壊された。

結局、インカ人の反乱は制圧され、フランシスコ・ピサロは1534年、キトへの殖民を開始。街は「サン・フランシスコ・デ・キト」と名づけられた。 地元民は改宗させられ、教会の建設などに酷使された。そしてその後300年にわたり、キトはスペインの植民地として支配されることとなる。

1800年代初頭には人口1万人を数える都市に成長していたキトだが、そのころにはスペインからの独立の気運が高まってきていた。しかしその運動は、1810年にリマから派遣されたスペイン軍により鎮圧されることになる。 だが、その後も運動は続き、救援に来たアントニオ・ホセ・デ・スクレが1822年にスペイン軍にピチンチャの戦いで勝利したことで、スペインからの独立を勝ち取り、大コロンビアの一部となる。 だが、1830年には独立し、独立したエクアドルの首都となる。

2009年03月03日

未来からやってきたタイムパトロールの隊員

主人公
未来からやってきたタイムパトロールの隊員だったが、大帝国キラーズとの試合に負けたことで和桐製作所の借金の肩代わりをしてしあわせ島に送られた。倉刈の反応から、2の主人公に似ている設定はあるようだが、小杉は特に反応しないことから、5の主人公には似ていないようだ。
落田 太二(おちた たいじ)
しあわせ島編での相棒。玩具の買いすぎで借金を作り、しあわせ島にやってきた。
小杉 優作(こすぎ ゆうさく)
パワポケ5の主人公の元の体。スター選手の地位を満喫していたが、豪遊の末スランプに陥り、塚本に裏切られて島に売り飛ばされる。基本的に自分勝手でわがままな性格だが、だんだん主人公達と打ち解け、倉刈が日出子に電話をかけるときなどに協力してくれるなど根はいい奴である。主人公が野手のときは投手。投手のときは遊撃手になる(が初期のロムでは選手として彼が登録されていない)。
倉刈 仁志(くらがり ひとし)
娘の日出子を、大学に行かせるため島に来た。シリーズを通して貧乏である不幸な人。元モグラーズのショートだったが、外野にコンバートしたらしい。「11」にも登場。
渡辺 彰俊(わたなべ あきとし)
親の借金を相続したため島に来た。親だけでなく、彼自身にも借金を作る素質がある。ポジションは二塁手。
布具里 珠男(ふぐり たまお)
パワポケ4にも出てきたキャラクター。親は大手下着メーカー、フールグーレの社長だったが倒産し、貧乏になる。だが、しあわせ島には借金のカタで来たわけではなく、宝探しの際に流れ着いただけ。ポジションは投手。
三谷 権造(みたに ごんぞう)
バイク店を経営していたが悪徳金融に引っ掛かって島に来た。酒好きがたたり、なかなかペラが貯まらない。ポジションは捕手。44歳なのにパワーはなかなかある頑固な親父。主に兵器工場にいる。
中田 洋一(なかた よういち)
家に帰って親孝行をしたいらしい、農家出身の若きアフロ。ポジションは三塁手。能力アップしていない状態では、三谷よりもパワーがあり、肩もいい。
江川 茂(えがわ しげる)
歪んだ性格をしている、野球班班長。一流銀行の部長候補だったが、色々あって島に来た。今は班長という立場を利用して、良い生活を送っている。なお野球選手ではない。

BB団員
団長/メカ亀田
プロペラ団が亀田へのイヤガラセの為に造ったロボット。役に立たないので捨てたら、いつのまにかBB団を作っていた。捨てられた事を恨み、オリジナルを超えようとしている。そのためか、ロボットのくせにマニアな性質を見せているが実際にはただ模倣しているだけで本当にマニア心を理解しているわけではない。
所長/ヘルガ
修羅場をいくつもくぐり抜けてきた軍人。一年前に島に来た、冷静沈着で頭が切れる女性。規律に厳しく、一見残酷な面もあるが主人公に本を貸すなど優しい面もある。運動会の時にフォークダンスやキャンプファイヤーがあると思っていたりとお茶目な一面も。恐怖による正義を目指している。
副所長/マコンデ
しあわせ島の前所長。しあわせ島で病気がはやり、収容者がたくさん死んだために降格させられた。野球は嫌いだがブラッドバタフライの監督でもある。
ドクター/ジーラー=ジェンキンス
しあわせ島の収容者で人体実験をしている人。しあわせ島で最も幸せな人。医者の代わりも務めている。彼の研究内容は「10」や「11」のシナリオにも影響を与えている。
兵士
しあわせ島の警備や管理をしている下っぱ。皆同じ顔だがそれぞれ違った過去を持つ人々。中には良心を持った者もいる。
BX-A5
PX-001(たかゆき)の量産型。自我があるが、戦闘には使えないようになっている。量産型なので、たかゆきの性格を引き継いではいるが、たかゆきよりも好感が持てるロボットである。自我を持っているためか、非常に人間らしい行動を取る。
ドタキャン ターム みゅすか オプテ オースト ヌクレ バコマ ソプラ シャン ライナ オオボ チョン ネコン ブロス ロード おおだま バリア チャーム ヤブコウジ シアター 風模様 フェニック ジェット サーチ群青 トウバ マルア コンバレー サンベ ジャンパ アパチャー フィジカ キュリー スカンジ シガー タワナ マンガ グーイ デュオ トリレ ラジアン ピーチ パール チーム ビースト オシロ エリトリア トラッ トデー 樹やしき リュウノヒゲ

その他の登場人物
カパリ
しあわせ島の原住民の村長的な人。
バオ
しあわせ島の原住民。BB団を追い出そうと色々な作戦を立てる。
インミン
しあわせ島の原住民。主人公と仲良くなったりする。しかし彼女にはならない。
としおくん
カエルとカブトムシとムカデが混じった謎の生物。名前は昔島に来た日本兵がつけたらしい。
ガンダーロボ
メカ亀田によって作られた1/1スケールの「時空戦士ガンダーロボ」。なお「3」では亀田、「7」では黒野博士が作っている。
まさこ
しあわせ島のリフレッシュルームで飼われているヤギ。値段は20ペラと高い。一緒に居ると癒される・・・・らしい。
吉田よしこ
プレイルームにいる人。金髪だが日本人。

2009年02月12日

あるぺじお 〜きみいろのメロディ〜

『あるぺじお 〜きみいろのメロディ〜』は2007年1月26日にSIESTAから発売された18歳未満購入禁止(18禁)のパソコンゲーム(アダルトゲーム)ソフト。2005年12月9日に発売された『MOON CHILDe』(ムーンチャイルド)に続くSIESTAブランドの第2作。 前作とは全く趣旨の違う『初恋体験』をジャンルとした作品。
ション トリソウ コホシュ 砂漠 スタディ イライン リセッセ シミュレ タリオ ドライシ アカネス 晴レルヤ グレープフ イナル タラップ クォーラム ウンセケ ブルート シュガ オートク しむか かんげん ボール 海辺の扉 ブィク バック ミディア 蛍の光 スクリュ 天喜人気 チーズ セラピー ゴリラ コレク ブックパカ テクタイト スローピン サンダー タータン ガイドヒヒ シトリン プリ マップ テークオフ シュビル クイヤン バンド トピック SEOタウンテニス シーディー

初回限定版『あるぺじお 〜きみいろのメロディ〜 初恋メモリアルパック』にはあきら、きみづか葵、硯、西E田、蓮見江蘭などの原画家による描き下ろしイラストが収録された『あるぺじお初恋ファンブック』と榊原ゆいの歌うオープニングテーマ『ボクノセカイ』(フルコーラス)・エンディングテーマ『私の歩幅で』・『ボクノセカイ-inst ver-』を収録した『あるぺじお 初恋MEMORIAL DISC』が付属。さらに、ソフマップでは『ボクノセカイ』のアレンジバージョン等が収録されたディスク『Yui REMIX』も付属。

クラシック音楽をテーマとした恋愛アドベンチャーゲームで、攻略可能なヒロイン数は5人。タイトルの『あるぺじお』(Arpeggio)は「分散和音」を意味するクラシック音楽用語で作品内で結成されるアンサンブルユニットの名でもある。なお、公式サイトのURLやゲーム内の表示では一部"Alpeggio"となっているがこれはイタリア語で「アルプス山脈などの高山における夏季の放牧」を意味する言葉であり、誤り。

エンディング数は5人のヒロイン1人につきハッピーエンドとバットエンドが1つずつ、計10。

あらすじ
音楽の盛んな町「ゆきかぜ町」にあるエスカレーター式の学校「ゆきかぜ学園」に通う少年「朝風陸」。双子の兄「海」と共に音楽家夫婦の間に生まれた彼は幼いころからずっとバイオリンを続けていた。10月のある日、彼は学園のアイドル的な美少女「北見ちさと」が何やら物思いにふけっているのを目にする。その日から陸は彼女のことが妙に気になりだし、バイオリンの演奏も思い通りにゆかなくなる。やがて自分がちさとに片想いをしているのだと気付く陸であったが、所詮自分と彼女では釣り合わないのだとあきらめる。

数日後、陸がいつも聴いているラジオ番組『SMILE WAVE』で「音楽仲間になってくれるゆきかぜ学園の生徒を募集している」という葉書が読み上げられた。興味を抱いた陸は待ち合わせ場所であると言う町の喫茶店「レント」を訪れる。そこにやってきたのはなんと陸が憧れていた少女・ちさとだった。仲間を探していたのはちさとであり、番組に投稿したのは彼女の親友でレントの看板娘でもある少女「双川なるみ」だった。聞くところによると二人はその年のクリスマス・イブの日に町の「ゆきかぜホール」で開かれる有名なコンクール「ホワイト・アンサンブル」への出場を希望しており、そのためのユニットを組んで欲しいとのことだった。

自分ごときの実力ではレベルの高いホワイト・アンサンブルに出られるわけがないということと、年齢資格も満たしていないということから一瞬断ろうとした陸だったが、ちさとにあまりにも切実に頼まれたことにより、思わず引き受けると言ってしまう。

ピアノが弾ける双子の兄「海」にも是非協力して欲しいと言われた陸は、その日の出来事を兄に話す。気難しい性格の兄が引き受けるわけがないと思っていた陸であったが、意外にも海は素直に参加すると語った。こうして、陸・海・ちさと・なるみの4人で結成されたユニットはホワイト・アンサンブル出場のため練習を開始することになったが…。

登場人物
朝風 陸(あさかぜ りく) (声:なし/楽器:バイオリン)
「ゆうらぎ町」に暮らす本編の主人公。指揮者の父とピアニストの母との間に生まれた少年で、幼い頃からバイオリニストを目指してきた。地道な努力家で演奏の腕もなかなかのものだが、「海」という名の双子の兄に敵わないことにコンプレックスを抱いている。内気で純情な性格で異性の前ではあがりやすく、思ったことがすぐ顔に出てしまうため嘘をつくことも苦手。心臓が弱く激しい運動ができないため体育の授業はいつも欠席している。DJ・MAOがパーソナリティを務める海賊放送のラジオ番組『SMILE WAVE』が好きでいつも欠かさず聴いている。なお、陸と海の苗字はゲーム開発当初「朝風」ではなく「疋田(ひきた)」であり、いくつかの雑誌でも「疋田陸」「疋田海」と紹介されていた。
朝風 海(あさかぜ かい) (声:???/楽器:ピアノ)
陸の双子の兄で学園では陸と同じクラス。眼鏡をかけている。陸とは逆に自由気ままな性格で努力することは嫌いであり、女の子の家に外泊することもしばしば。ピアノが専門だがバイオリンをはじめ、多くの楽器を自在に弾きこなすことができ、その腕前は陸より上。しかし勉強や料理など音楽以外のこと全般が苦手である。デリカシーがなく無愛想で言葉遣いが悪いため、相手を苛立たせるようなことを言うことも多い。しかし、陸に言わせれば単に素直でないだけで本当は優しい性格だとのこと。
北見 ちさと(きたみ ちさと) (声:榊原ゆい/楽器:フルート)
陸たちの通う「ゆきかぜ学園」で同学年の少女。実家が裕福な上、成績優秀でおとなしく、学園のアイドル的存在。しかし意外とドジでそそっかしいところもあり、料理などは苦手である。やや臆病でもあり、雷や地震にも怖がりやすい。幼い頃に母親を亡くし、その形見であったフルートをほぼ独学で体得した。今回はある強い思いから、「ホワイト・アンサンブル」への出場を目指している。陸・海・ちさと、そしてちさとの親友「なるみ」の4人で結成されたユニットは、ちさとの提案により『あるぺじお』と名づけられた。
双川 なるみ(ふたがわ なるみ) (声:青山ゆかり/楽器:ヴィオラ)
「ゆきかぜ学園」の女生徒で、ちさとの親友。ちさとのことを「ちーちゃん」と呼ぶ。ツインテールの髪が特徴。ゆきかぜ町にある喫茶店「レント」のマスターの娘であり、不器用で料理が苦手な父親に代わって、店のメニューの管理を担当している。父親の本職がピアノ調律師であることから、クラシック音楽にも親しんでいる。明朗快活で気が強く負けず嫌いな性格で、口の悪い海と言い争いになることが多い。ちさとに好意を寄せている陸のことを応援している。
泡坂 晴(あわさか はる) (声:大花どん/楽器:チェロ)
陸・海のクラスメートの少女。自分のことを「ハル」と呼ぶ。体は小さいが度胸は大きく、いつも正々堂々とした態度で海に「ちびっこ」と言われると怒り出す。勘が鋭く陸が悩んでいるのを見抜くのが得意。ぶっきらぼうでやや乱暴な話し方をするが、努力家で成績は学年で常に10位以内。上級生からも人気があり、ホワイト・アンサンブルに出場できる年齢に達していない陸たちのため、学園の先輩らに学生証の名義を借りてきてくれた。当初は音楽とは縁がなく、陸達のことを陰で支えていたが…。
広瀬 絢(ひろせ あや) (声:鈴田美夜子/楽器:バイオリン)
高名な音楽家・広瀬丈の娘。幼少の頃から海外に渡っており「スウェーデンの妖精」と呼ばれるほどの天才バイオリニスト。陸達と同い年にして既にCDも出している。交換留学生として「ゆきかぜ学園」にやってくるが、海外生活が長かったためやや日本語はぎこちない。
六人部 更紗(むとべ さらさ) (声:海原エレナ)
ゆきかぜ学園の音楽教師にして朝風家の居候。陸の父の古い知り合いの娘であり、音楽旅行で普段家にいない両親に代わり、陸と海の保護者となっている。陸と海からは「むー姉ちゃん」と呼ばれている。親しみやすさと面倒見の良さから生徒からの人気は高い。しかし、妙に規則に厳しいところもあるため、陸と海は更紗にホワイト・アンサンブルのことは内緒にしている。
MAO(マオ) (声:???)
ゆきかぜ学園で人気のあるラジオ番組『SMILE WAVE』のパーソナリティを務める女性DJ。若者達の心をうまくつかんだトークで高い人気を集めている。番組内では自分のことを青い目を持つクォーターのお姉さんだと言っているが、番組は公開録音されたこともないため、その姿は誰も知らない。

SMILE WAVE
ゲーム内で放送される人気ラジオ番組『SMILE WAVE』は地域密着型のローカル番組であり、他の民放番組に負けないほどの人気があるという設定。ちさとやなるみの出した投稿葉書が取り上げられることもあり、ゲーム本編のストーリーと大きく関わってくる。

番組内容は毎回3〜4件ほどの投稿葉書をDJのMAOが読み上げ、それに答えるという内容。主に十代の読者からの悩み相談などが多い。その他に毎回1曲音楽が流される。曲目はCooRieの『君とナキムシ』、橋本みゆきの『ありがと!』などランティス所属アーティストによるものや、他社のアダルトゲーム関連楽曲である。投稿葉書の内容と曲目はゲームをプレイする度にランダムで変化する。

なお、この番組を模した同名のインターネットラジオ番組がランティスウェブラジオで配信されていた。内容はリスナーからの投稿(本当の投稿かどうかは不明)、ランティスの最新楽曲、本ゲームおよびランティスに関する告知など。ゲーム内番組でのトークはFMラジオのDJを思わせるスマートなものであるが、インターネットラジオの方ではコメディタッチのものとなっていた。

2009年01月26日

リヒャルト・シュトラウス

リヒャルト・ゲオルク・シュトラウス(Richard Georg Strauss, 1864年6月11日 - 1949年9月8日)はドイツの後期ロマン派を代表する作曲家である。交響詩とオペラの作曲で知られ、また、指揮者としても名高い。

ウィーンのヨハン・シュトラウス一族とは血縁関係を持たない。

彼は、1864年6月11日にバイエルン王国のミュンヘンで、ミュンヘン宮廷歌劇場の首席ホルン奏者であったフランツ(Franz Strauss, 1822年-1905年)の子として生まれた。 母親はミュンヘンの有名なビール醸造業者(プショール醸造所)の娘だった。リヒャルトは幼いときから父親によって徹底した、しかし保守的な音楽教育を受け、非常に早い時期から作曲を始めた。

1882年にミュンヘン大学に入学するが、1年後にベルリンに移った。そこで彼は短期間学んだ後、ハンス・フォン・ビューローの補助指揮者の地位を得、1885年にビューローがミュンヘンで辞任するとその後を継いだ。

音楽の変化と発展 
この頃までのシュトラウスの作品は父親の教育に忠実で、シューマンやメンデルスゾーン風のかなり保守的なものであった。モーツァルトを崇敬しており、「ジュピター交響曲は私が聴いた音楽の中で最も偉大なものである。終曲のフーガを聞いたとき、私は天にいるかの思いがした」[1]と語ったという。

シュトラウスが当時の新しい音楽に興味を持つきっかけとなったのは、優れたヴァイオリン奏者で、ワーグナーの姪の1人と結婚したアレクサンダー・リッターと出会ったときからである。シュトラウスが革新的音楽に真剣に向き合うようになったのは、リッターによるところが大きい。

この革新的傾向はシュトラウスに決定的な影響を与え、1889年に初演され、彼の出世作として最初に成功した作品、交響詩『ドン・ファン』(Don Juan)が生まれた。この作品に対する聴衆の反応は、半数は喝采したものの、残り半数からは野次が飛んだ。シュトラウスは彼の内なる音楽の声を聞いたことを知って、「多数の仲間から気違い扱いされていない芸術家など誰もいなかったことを十分に意識すれば、私は今や私が辿りたいと思う道を進みつつあると知って満足している」と話した。

シュトラウスは他にも一連の交響詩の作曲を続けた。その中には『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(Till Eulenspiegels Lustige Streiche, 1895年)、シュトラウスの死後に映画『2001年宇宙の旅』で使われ有名になった『ツァラトゥストラはかく語りき』(Also sprach Zarathustra, 1896年)がある。

1898年、最後の交響詩『英雄の生涯』(Ein Heldenleben)を書き上げたシュトラウスは、関心をオペラに向けるようになった。このジャンルでの最初の試みである『グントラム』(1894年作曲)は酷評され、『火の危機』(1901年作曲)はミュンヘン方言のオペラということもあり、一定の成功を収めたにとどまった。

しかし、1905年にオスカー・ワイルドの戯曲のドイツ語訳にそのまま作曲した『サロメ』(Salome)を初演すると、空前の反響を呼んだ。ただし、聖書を題材にしていることや、内容的にもエロティックな面もあり、上演禁止になったところも多く、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場がこの作品を公開すると、聴衆の怒号の余りの激しさに、たった1回の上演で公演中止になったほどであった。マーラーら、当時の作曲家達はその音楽の前衛性に深く共感し、シュトラウスは輝かしいオペラ作曲家としての第一歩を踏み出した。

シュトラウスの次のオペラは『エレクトラ』で、前衛的手法をさらに徹底的に推し進め、多調の多用、不協和音の躊躇なき使用などを行い、調性音楽の限界を超えて無調音楽の一歩手前までに至った。この作品はシュトラウスが詩人フーゴ・フォン・ホーフマンスタールと協力した最初のオペラでもある。この2人はホーフマンスタールが病没するまで、稀に見る協力関係を続けていくことになる。

その共同作業第2作目になる『薔薇の騎士』(Der Rosenkavalier, 1910年)で、圧倒的な大衆的成功をおさめた。演出はマックス・ラインハルト。シュトラウスは『薔薇の騎士』を境にそれまでの前衛的手法から一転、保守的傾向を強め、当時興隆しつつあった新ウィーン楽派などとは一線を画す路線を歩み始める。その後も一定期間毎にオペラの作曲を1940年代初頭まで続けたが、ついに『薔薇の騎士』を超える成功を掴むことはできなかった。

ナチスへの協力
1930年代以降におけるナチス政権下のドイツにおいて、シュトラウスと政治との関わりをめぐって多くの議論がある。一方は、彼が第三帝国の帝国音楽院総裁であったこと、当局の要請に応じ音楽活動を行った事実を指摘し、この時代のシュトラウスを否定的にみる見解。もう一方は、シュトラウスの息子の嫁がユダヤ人であり、その結果、孫もユダヤ人の血統に連なる事実を指摘し、自分の家族を守るため、ナチスと良好な関係を維持せねばならなかった点、また、シュトラウスはオペラ『無口な女』の初演のポスターから、ユダヤ人台本作家シュテファン・ツヴァイクの名前を外す事を拒否するという危険を犯した点、また彼は自身の公的な地位を使って、ユダヤ人の友人や同僚達を保護しようとしたという示唆もあり、むしろ、シュトラウスはナチスに利用され続け、被害者の立場ですらあるという同情的意見がある。

シュトラウスは第二次世界大戦終結後にナチスに協力したかどうかで非ナチ化裁判にかけられたが、最終的に無罪となった。なお、1940年(昭和15年)にはナチスの求めに応じて、「皇紀2600年奉祝曲」を書いている(当該項目を参照)。

終戦後とその死
終戦後、裁判の被告となったこともあり、表だった活動は控えていたが、周囲からのすすめもあり、ロンドン公演を実施している。イギリス人にとってもはや彼は“過去の人”であったが、自ら指揮棒を振り、健在さをアピールしている。このときの演目は「家庭交響曲」(本人は「アルプス交響曲」を希望したが、当日に別の演奏会があったためにオーケストラ奏者を確保できなかった)。なおこの公演で、「あなたが、あの『美しく青きドナウ』の作曲者なのですか?」と行く先々で尋ねられたという話が知られている。
こどまり バーベキュー スターライト ハンバ むぎわら ヘデラ スクエア レポレート タチアオイ かささ あとがま レムリア 紙飛行 モノカイ サフル サウジ ラノオ ダクション かしはら デコラ フルス レべリング クンツ フェライト かぶとが ピンチ ナビユタ わらび野 コロポ リパー ライセ あねご トーテム 世界一周 しゃな ロコモー シュー ファーム てごろ ンソウ ドライ リード オミット ドルチェ イズム セッティ スイート ハジサー つきほと 桃一郎

1948年、シュトラウスの時間をもてあましていたので家族に言われて最後の作品の1つである、高声(実際はソプラノ)と管弦楽のための『4つの最後の歌』を書いた(出版は彼の死後。実際にはその後もいくつかの歌曲が書かれた)。シュトラウスは生涯を通じて歌曲を作曲したが、恐らく歌曲の中でこれがもっとも有名なものの1つである。すでにシュトックハウゼン、ブーレーズ、ノーノ、ケージといった作曲家達が登場し始めていたこの時代、シュトラウスの作風は、古色蒼然とした時代遅れのものとなっており、シュトラウス自身も戦後すぐの放送インタビューで「私はもう過去の作曲家であり、私が今まで長生きしていることは偶然に過ぎない」と自ら語っていた。にも関わらず、この歌曲集は聴衆からも演奏家からも常に人気を博している。

1949年9月8日、彼はドイツのガルミッシュ=パルテンキルヒェンで没した。遺言により、葬儀では『薔薇の騎士』第3幕の三重唱が演奏された。

指揮者シュトラウス
指揮者としてのシュトラウスは、若い頃はロマン・ロランに「気違い」と批判されるほど激しい身振りを身上とする指揮スタイルであった。しかし、後年のスタイルはカール・ベームやジョージ・セルらの弟子の演奏スタイルから想像がつくように、いわゆる新即物主義的な、誇張の少ないものになった。

もっとも、セルの証言によればシュトラウスは演奏よりもスカート (トランプ)を好んでいたらしく、ある時、オペラ(セルが口ずさんでいた曲からすると、おそらくベートーヴェンの「フィデリオ」)の指揮中に懐中時計を見たところ、このままではゲームを約束している時間に間に合わないとばかりに、いきなり猛スピードで指揮をしだしたというエピソードがある。

またベームの証言によれば、「影のない女」を指揮した際に指揮姿を撮影していたカメラマンが「どうか左手を出して、立って指揮をしてください」と懇願したところ、「私は以前から指揮するときはこうと決めている。今後もずっと、左手を出さずに座って指揮をする!」と怒り出したが、クライマックスの部分でつい熱が入ってしまったのか、思わず左手を出して立って指揮をしてしまった。演奏終了後、ベームに「先生は、常日頃から自分の指揮スタイルに関して「これは破ってはならないこと」とおっしゃってました。しかし今日、先生はその教えを自分で破ってしまいましたね」と言われたシュトラウスは、黙ったまま逃げるようにして劇場から帰っていったという。また別の逸話ではギャラを二倍にすれば両手で指揮をするとも言ったといわれている。

彼の演奏は自作自演も含め、数多く録音されて現存しており、その姿は写真のみならず幾つかのフィルムで偲ぶことができる。

指揮者としての心構えをベームに対して、こう語ったという。「右手で拍子をとるのは外面的な事で、楽員が自らの場所を見失わないようにする為である。その他は全て精神的なものから来る。指揮者の表情は曲の抒情的な部分や劇的な部分で変化すべきであるし、作品に現われる愛や憎悪を共に体験しなければならないのだ」。

シュトラウスの作品
年は作曲完了年(作曲年月日)【台本作家】

ペラ/舞台作品
『トーリードのイフィジェニー』AV186 1890年(1890.9ヴァイマル)独語版改作 --- 原曲:グルック
『グントラム』op.25 1892年(1892.11.24)【作曲家自身】― 初演失敗、オペラ作曲を一度は諦める
『火の危機』(火の消えた町)op.50 1901年 (1901.5.21)【エルンスト・フォン・ヴォルツォーゲン】
『サロメ』op.54 1905年(1905.6.20(サロメ舞曲なし)、1905.8月下旬;サロメ舞曲)【オスカー・ワイルド/H.ラハマン】
『エレクトラ』op.58 1908年(1908. 9.22ガルミッシュ)【ホーフマンスタール】
『薔薇の騎士』op.59 1910年(1910.9.26ガルミッシュ)【ホーフマンスタール】
『ナクソス島のアリアドネ』op.60(I) 1912年(1910. 7.22)(モリエールの戯曲「町人貴族」をホーフマンスタールが改作、シュトラウスの音楽つきで上演したさいに劇中で上演された)【ホーフマンスタール】― 初演失敗
バレエ『ヨゼフ伝説』op.63 1914年(1914.2.2ベルリン)【H.G.ケスラー、ホーフマンスタール】
『ナクソス島のアリアドネ』op.60(II) 1916年(1916. 6.19)(改訂版;町人貴族なし)【ホーフマンスタール】― 現在一般に上演されている版
『影の無い女』op.65 1917年(1917.6.24)【ホーフマンスタール】
喜劇『町人貴族』op.60(III) (1917.10.11)【モリエール/ホーフマンスタール】
バレエ 『泡立てクリーム』op.70 1922年 (1922.9.16ガルミッシュ)【作曲家自身】
『インテルメッツォ』op.72 1923年(1923.8.21ブエノスアイレス)【作曲家自身】
劇音楽『アテネの廃墟』AV190 1924年 ガルミッシュ ― ベートーヴェン原曲【ホーフマンスタール】
映画音楽『薔薇の騎士』op.112 1925年(1925.10.18ガルミッシュ)【ホーフマンスタール】
『エジプトのヘレナ』op.75 1927年(第1稿;1927.10.8ガルミッシュ)【ホーフマンスタール】― 初演失敗
『イドメネオ』o.op.117/AV191 1930年(1930.9.28ガルミッシュ)― モーツァルト原曲【L.ヴァラーシュタイン、作曲家】
『アラベラ』op.79 1932年(1932.10.12)【1幕;ホーフマンスタール、2,3幕はホーフマンスタール死去のため作曲家による自由な改変】
『エジプトのヘレナ』op.75 1933年(1933. 1.15ガルミッシュ;ヴィーン改訂稿)― 現代最もポピュラーな版
『無口な女』op.80 1935年(1935.1.17ガルミッシュ)【シュテファン・ツヴァイク】
『平和の日』op.81 1936年(1936. 6.16ガルミッシュ)【シュテファン・ツヴァイク(原案)、ヨゼフ・グレゴール】
『ダフネ』op.82 1937年(1937.12.24タオルミナ)【ヨゼフ・グレゴール】
『ダナエの愛』op.83 1940年(1940.6.28ガルミッシュ)【ヨゼフ・グレゴール】
『カプリッチョ』op.85 1941年(1941.8.3ガルミッシュ)【クレメンス・クラウス、作曲家】
『ロバの影』AV300 1948年(未完・オペレッタ・スイス;カールハウスナーによる管弦楽補完)【ハンス・アドラー】

バレエ音楽
バレエ音楽『ヨゼフ伝説』作品63
バレエ音楽『泡雪クリーム』作品70

歌曲
『子守歌』1878年
『奉納(献呈)』Zueignung1882年-1883年
『万霊節』Allerseelen1883年
『ツェツィーリア』作品27-2 1894年
『ひそやかな誘い』作品27-3 1894年
『あした』作品27-41894年
『黄昏の夢』作品29-1 1895年
『4つの最後の歌』Vier Letzte Lieder1948年
第1曲『春(Frühling)』1948.7.18
第2曲『九月(September)』1948.9.20
第3曲『眠りにつくとき(Beim Schlafengehen)』1948.8.4
第4曲『夕映えの中で(Im Abendrot)』1948.5.6
『あおい』(遺作)1948年

合唱曲
『さすらい人の嵐の歌』作品14(混声合唱と管弦楽)
『2つの歌』 作品34(無伴奏混声合唱)
夕 Der Abend
讃歌 Hymne
『オリンピック讃歌』(混声合唱と管弦楽)
『タイユフェ』作品52(ソプラノ・テナー・バス独唱・混声合唱と6管編成の管弦楽の為のバラード)
『ドイツモテット』 作品62(無伴奏混声合唱)
『リュッケルトによる3つの男声合唱曲』(無伴奏男声合唱)

交響詩
『ドン・ファン』1888年
『マクベス』1890年
『死と変容』1889年
『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』op.281895年
『ツァラトゥストラはこう語った』1896年
『ドン・キホーテ』(Don Quixote)1897年(チェロとヴィオラの協奏的作品)
『英雄の生涯』(Ein Heldenleben)1898年

交響曲
交響曲(第1番)ニ短調 1880年
交響曲第2番ヘ短調 作品12 1884年
家庭交響曲(Sinfonia domestica) 1903年
アルプス交響曲(Eine Alpensinfonie) 1915年

協奏曲
ヴァイオリン協奏曲ニ短調 作品8 1882年
ブルレスケ ニ短調(ピアノと管弦楽) 1885年
家庭交響曲へのパレルゴン 作品73(左手ピアノと管弦楽)
パン・アテネの大祭 作品74(左手ピアノと管弦楽)
ロマンツェ ヘ長調(チェロと管弦楽)
ホルン協奏曲第1番変ホ長調 作品11 1883年
ホルン協奏曲第2番変ホ長調 1942年11月28日
オーボエ協奏曲 1945年10月25日
二重小協奏曲(クラリネット、ファゴット、ハープ、弦楽合奏)1947年12月16日

その他の管弦楽曲
交響的幻想曲『イタリアから』作品16 1886年
組曲『町人貴族』作品60 1917年(劇音楽から抜粋)
祝典前奏曲 作品61(Festliches Präludium)
日本建国2600年祝典曲 作品84 1940年
『メタモルフォーゼン』(Metamorphosen)1945年(弦楽合奏)

管楽合奏曲
13管楽器のためのセレナード 作品7 1881年
13管楽器のための組曲 作品4 1884年
ウィーン・フィルハーモニーのためのファンファーレ(金管とティンパニ)
ウィーン市民のためのファンファーレ(金管とティンパニ)
ヨハネ騎士修道会の荘重な入場(金管とティンパニ)
16管楽器のためのソナチネ第1番「傷病兵の仕事場から」
16管楽器のためのソナチネ第2番「楽しい仕事場」

室内楽曲
チェロ・ソナタ ヘ長調 作品6 1883年
ヴァイオリン・ソナタ 作品18 1888年
『イーノック・アーデン』作品38(ピアノと朗読) ― アルフレッド・テニソンの詩による
弦楽四重奏曲 イ長調 作品2 1880年
ピアノ四重奏曲 ハ短調 作品13 1885年

2009年01月18日

丸山は戦後日本に大きな影響を与えた人物

丸山は戦後日本に大きな影響を与えた人物ということもあり、様々な立場から批判がなされている。ただ、丸山が批判に余り取り合わず「黙殺」したことで、結果的に丸山の権威が認められたと竹内洋は述べている。

批判の概要
プロレタリア革命を主張するマルクス主義者から、西洋近代のブルジョワ市民社会を理想とする「近代主義者」「市民派」であるとして批判された。
東大紛争では、全共闘の学生から、東大教授という立場に寄りかかった権威主義者、大衆から遊離した貴族主義者であるとして批判された。この背景には、在野知識人による丸山批判があったとする見方がある。
日本ファシズム論の定義が曖昧であるという批判や、丸山の議論は西欧にあって日本にないものを指摘する「欠如理論」である(例:日本には民主主義や個人主義の伝統がない等)という批判もある。
近年はポストコロニアリズムの立場から、その「国民主義」や、ナショナリストとしての一面を厳しく批判されている。
日本政治思想史研究に対しては、近世思想史の解釈が恣意的(「自然」と「作為」という概念を無理にあてはめている等)といった批判などがある。経書学・日本思想史の立場から、漢籍読解の稚拙さを指摘する論考もある。

批判者
丸山の影響を受けた橋川文三は、論文「昭和超国家主義の諸相」にて丸山を継承しながらも批判を加えている。著作集は筑摩書房
思想的伝統が日本には形成されなかったとする丸山に対し、梅原猛は『法華経』などの古典などを読まずにその様な断定を行うのは性急であると批判している。
吉本隆明 『柳田国男論・丸山真男論』ちくま学芸文庫
吉本隆明ほか 『批評とは何か/丸山真男について』
   吉本隆明研究会編集/吉本隆明が語る戦後55年12 三交社

大塚久雄は、梶山力と共訳であったマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を、のち大塚の単独訳にした。安藤英正はこのことを批判し、梶山の翻訳を刊行しようとしたが、その際、圧力をかけてきたのが丸山であったことが、羽入辰郎『学問とは何か』に記されている。
赤木智弘

参考文献
伊藤隆『昭和期の政治』、『続.昭和期の政治』(山川出版社)
筒井清忠『昭和期日本の構造』(講談社学術文庫)
ビレッジ ジュレーター ララバイ 幸せの鳥 モノライン ギンヌン オプシン レンズ じゅん ナッパ トマト データ リデュース ピンサロ ブッフェ ニング エンド ちゃうす デンド ドライブ クロマ レトロ シロホン タンタン オーダ キットキ メソポ オフデ スイス デシベル ノニ チョコ ムルデ ジャバ オパール ソワニ カノン カキラン ニズム ロード フィード シュルント ミードテ リニアック たてあな ランナ バギナ パイント ドスキン ヨーデル

中村菊男 『天皇制ファシズム論』(原書房)
【丸山論は50冊以上出されている、以下は主な文献】
竹内洋 『丸山眞男の時代 大学・知識人・ジャーナリズム』中公新書
水谷三公 『丸山真男 ある時代の肖像』 ちくま新書
苅部直 『丸山真男 リベラリストの肖像』 岩波新書 
長谷川宏 『丸山真男をどう読むか』 講談社現代新書
間宮陽介 『丸山真男 日本近代における公と私』 筑摩書房のち,ちくま学芸文庫
松本健一 『丸山真男八・一五革命伝説』河出書房新社  のち「伝説シリーズ6」辺境社
「みすず」編集部編 『丸山真男の世界』 みすず書房  追悼文集  
KAWADE道の手帖『丸山真男没後10年、民主主義の〈神話〉を超えて』河出書房新社
大隅和雄・平石直昭編著 『思想史家丸山真男論』 ぺりかん社
『現代思想 丸山真男』 1994年1月号 青土社
中野雄 『丸山真男 音楽の対話』 文春新書24 文藝春秋    
宮村治雄 『丸山真男 「日本の思想」精読』 岩波現代文庫学術42
板垣哲夫 『丸山真男の思想史学』 歴史文化ライブラリー149・吉川弘文館
石田雄 『丸山真男との対話』 みすず書房
笹倉秀夫 『丸山真男の思想世界』 みすず書房
飯田泰三 『戦後精神の光芒 丸山真男と藤田省三を読むために』 みすず書房
加藤周一・日高六郎対談 『同時代人丸山真男を語る』転換期の焦点6・世織書房
石田雄他 『丸山眞男と市民社会』 世織書房
都築勉 『戦後日本の知識人 丸山真男とその時代』 世織書房
山崎正純 『丸山真男と文学の光景』 洋々社
入谷敏男 『丸山真男の世界』 近代文芸社
佐藤瑠威 『丸山真男とカール・レーヴィット 近代精神と批判精神をめぐって』 日本経済評論社
植村和秀『丸山真男と平泉澄 昭和期日本の政治主義』パルマケイア叢書19・柏書房
田中浩 『日本リベラリズムの系譜 福沢諭吉・長谷川如是閑・丸山真男』 朝日選書662
中野敏男 『大塚久雄と丸山真男 動員、主体、戦争責任』青土社
情況出版編集部編 『丸山真男を読む』情況出版
小林正弥編『丸山真男論 主体的作為、ファシズム、市民社会』公共哲学叢書2・東京大学出版会
今井弘道 『三木清と丸山真男の間』 風行社
今井弘道 『丸山真男研究序説 「弁証法的な全体主義」から「八・一五革命説」へ』風行社
富田宏治 『丸山真男-「近代主義」の射程』 関西学院大学出版会
田口富久治 『丸山真男とマルクスのはざまで』 日本経済評論社  
安川寿之輔 『福沢諭吉と丸山真男 「丸山諭吉」神話を解体する』高文研
中島誠 『司馬遼太郎と丸山真男』 現代書館
中島誠 『丸山真男と日本の宗教』 第三文明社
中島誠 『丸山真男論 屹立する自由人の精』 第三文明社
北沢方邦 『感性としての日本思想 ひとつの丸山真男批判』 藤原書店
今井伸英 『丸山真男と戸坂潤 護憲の論理と丸山政治学の陥穽』論創社
アンドリュー・E.バーシェイ 山田鋭夫訳
『近代日本の社会科学 丸山真男と宇野弘蔵の射程』 NTT出版  また姉妹書で、
宮本盛太郎監訳『南原繁と長谷川如是閑 国家と知識人・丸山真男の二人の師』 MINERVA日本史ライブラリー2・ミネルヴァ書房