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午前八時主義

後藤は「午前八時の男でやろう」というスローガンを掲げ、台湾総督府時代の腹心で40歳そこそこの中村是公を副総裁に抜擢し、中村とともに30代、40代の若い優秀な人材を理事はじめ要職にスカウトした。三井物産の門司支店長から抜擢された犬塚信太郎に至ってはまだ32歳であったが人物・識見を買われ理事となった。

満鉄は単なる鉄道会社ではない。日露戦争中に兒玉源太郎が後藤新平の影響を受けて献策した「満州経営梗概」には「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ。」とあり、それを具現したのが満鉄なのである。

満洲を中心とした鉄道経営のみに留まらず、炭鉱開発(撫順炭鉱など)、製鉄業(鞍山製鉄所)、港湾、電力供給、農林牧畜、ホテル(ヤマトホテル)などの多様な事業を行なった。後藤の発案で設けられた満鉄調査部は当時の日本が生み出した最高のシンクタンクとして知られた。

後藤は「満鉄十年計画」を策定し、ロンドンでの社債の発行によって2億円を調達し、これらの事業を進めた。

ロシア帝国から引き継いだ鉄道付属地での独占的行政権を与えられており、地方部のもとで大規模な近代的都市計画(大連、奉天、長春のちの新京など。)を進めた。上下水道や電力、ガスの供給、さらには港湾、学校、病院、図書館などのインフラストラクチャーの整備を進め、満洲経営の中心となった。

レールの間隔の変更(改軌)は、初期満鉄の大きな問題だった。もともとロシアの敷いた軌間は5フィート(1524mm)の広軌であり、日露戦争中、野戦鉄道提理部が日本から持ち込んだ内地用の車両が走行可能なように3フィート6インチ(1067mm)の狭軌に改築していた。これを、政府の命令書により中国や朝鮮などに合わせて4フィート8.5インチ(1435mm)の国際標準軌間に改築しなければならなかった。1908年には大連 - 長春の本線の改築が終わった。不要になった狭軌の機関車は日本に還送されることになり、周水子駅で異例の機関車の送別会が行なわれた。また、日露戦争中に軽便鉄道として敷設された安奉線も標準軌に改築された。

1912年12月、第2代総裁中村是公、副総裁国沢新兵衛が更迭される。立憲政友会出身の内務大臣・原敬の差し金であった。総裁に政友会系鉄道官僚・野村龍太郎、そして副総裁には政友会の幹部だった伊藤大八が送り込まれた。これ以来、満鉄幹部のポストは政党の利権の対象となり、社員と激しく対立することもしばしば生じた。伊藤大八はそれまで行なわれていた理事の合議制を廃止し、総裁の権限強化を提案したが、創立以来の理事であった犬塚信太郎が強硬に抵抗した。その結果、犬塚と野村、伊藤はいずれも株主総会で更迭された。
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1918年原敬内閣が成立すると、原は1919年4月、理事長・国沢新兵衛を更迭し、社長に再び野村龍太郎を起用、副社長に政友会系鉄道官僚・中西清一を抜擢した。

中西は塔連炭坑と内田汽船を異常に高い値段で買収した。塔連炭坑は政友会の幹部・森恪が経営していた。内田汽船も政友会系の人物が経営していた。炭坑や汽船を満鉄に売りつけた代金は政友会の選挙資金に充てられた(満鉄疑獄事件)。野党・憲政会はこの問題を帝国議会で追及し、中西を背任罪で告訴した。また社員の中にも職を賭して抵抗したものがいた。興業部庶務課長であった山田潤二は野村社長と中西副社長に直言し、容れられないと職を辞し、検事に決定的証拠を提出した。中西は逮捕・起訴されるが、控訴審で無罪となる。

こうした度重なる政党の介入に対し、社員は団結し、1927年、社員会を結成する。

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2009年06月05日 08:27に投稿されたエントリーのページです。

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